思索の庵ー8
"The hermitage of the speculation"
 書物の中で、感動を受けた言葉や章を、ご紹介
させていただきます。
 少しづつご紹介し、必要なら感想も述べさせて
いただきます。



    
       メール 待ってます



 「何故か、考えさせられ、そして、安堵し癒されるのだ・・。」 そんなページを目指したい・・・・・・。 

 「ご案内」 
編集・管理人: 本 田 哲 康(苦縁讃)

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◇ 思索の庵 1 ・・ 「人生について」 授かったもの
思索の庵 2 ・・ "自然を考える"の章
◇ 思索の庵 3 ・・ "不自然=悲しみ"を考えるの章 
 ◇ 
思索の庵 4 ・・「木曽のなぁ〜♪ きその御嶽山はー ♪」の巻 

 
◇ 思索の庵 5 ・・ 維摩経(ゆいまきょう)から・・そしてガマの油売りに学ぶの巻 
 
◇ 思索の庵 6 ・・「いのちの(うた)」=金子みすず など
 ◇ 思索の庵 7 ・法句経から・・「己(おのれ)のことー1
 
 
    補:我執について
 ◇ 思索の庵  ・・ 日本人のこころの背骨
 ◇ 思索の庵 10 ・・ 聖徳太子と十七条の憲法
 ◇ 思索の庵 11 ・・歴史のうねりと流れの必然
 ◇ 思索の庵 12 ・・ 「十牛図」で”無我”を考える
 ◇ 思索の庵 13 ・・ 民族間抗争と難民の20世紀
 
◇ 思索の庵 14 ・・ だが、ヒトは限りなく崇高なものを求める
 
◇ 思索の庵 15 ・・ 円空の足跡・作品
  ◇ 思索の庵 16 ・・ 外国のヒトは日本人をこう見る
 ◇ 思索の庵 17・・加島祥造による老子「道・タオ」
 ◇ 思索の庵 18 ・・ 言志四録:佐藤一斎(川上正光訳)
 ◇ 思索の庵  19 ・・ 榎本栄一の他力の世界
 ◇ 思索の庵 20 ・・ 他力という不退転な生き方


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8 「(おのれ)」を考えるの巻=2     2月5日 
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  一燈を頼め→ 「個」と「ひとり」

  (1) 「ひとり」という言葉 ・・山折哲雄 京都造形芸術大学院長 MOKU 2001.MAR.42頁より

 本来の意味で「個」を言うのならば、日本の大和言葉には、「ひとり」という良い言葉があるんです。これは『万葉集』の中にすでに出ていて、柿本人麻呂にこういう歌があります。

 
「衣手にあらしの吹きて 寒き夜を 君来まさずば ひとりかも寝む」

  ひとりでいて、自然と対していると、自然に歌が生まれる。
 短歌とか詩の世界というのは、やはりひとりの時に心の内に火花が散り、魂が燃え上がる、そういう世界を表しているわけです。

十三世紀になって親鸞の『歎異抄
(たんにしょう)』にも出てくる。
 「弥陀
(みだ)の誓願(せいがん)」、つまり阿弥陀如来がわれわれを救ってくれる誓いというのは、「自分ひとりのためだ」と言っている。
 この「親鸞ひとりがためなり」というのは、非常に強い言葉です。そしてそれが本当の自立の思想というものであり、最近あちらこちらで鶏の鳴き声みたいに言っている、横並びの「個人」とは全然違うわけです。


 
(2) 放浪の俳人・尾崎放哉(おざきほうさい)そして種田山頭火(たねださんとうか)

 近代になると、放浪の俳人・尾崎放哉。一高、東大を出て、一流企業に入ったのに、すべての財産、職を投げ捨てて奥さんとも別れて、ひとりで放浪の旅に出た。最後は結核を病んで、四国の小さな寺のさびれた庵で息を引き取るわけですが、そのころ


      
 「咳(せき)をしても ひとり」   という俳句をつくっている。 

 大宇宙を前にしてたったひとりの自分がそこにいる、そういう感覚というか自覚だったのではないでしょうか。

 その放浪の句を聞いて、種田山頭火が感動して、

      「からす泣いて 私もひとり」   と和しています。

       (略)
 われわれは、もうそろそろ近代的な「個」という概念からもう少し自由になって、いわば日本の伝統に立ち戻って、「ひとり」の世界を追求したり、確立したり、考えたりする、そういう時代に来ているのではないかと僕は思っているわけです。

 ◇ 尾崎放哉:1885年年(明治18年1月20日)〜1926年(大正15年)。日本の俳人本名は秀雄。
       種田山頭火とならぶ自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人。
◇ 種田山頭火:1882年(明治15年12月3日)〜1940年(昭和15年10月11日)。戦前日本の俳人。
        自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人。
        1925年に熊本市の曹洞宗・報恩寺で出家得度して耕畝
(こうほ)と改名。本名・種田正一。
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梅咲けど 鶯(うぐいす)なけど ひとり哉 ・・一茶・・   
 宝暦13年6月15日(1763)〜文政10年11月19日(1827)。江戸時代を代表する俳諧師の一人。
本名:小林弥太郎。
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2 本来の『自分・吾』とは何か? ”一燈を頼め”をふり返る
  (1)  只だ一燈を頼め

 
一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うること勿れ。只だ一燈を頼め。
    ”提一燈。行暗夜。勿憂暗夜。只頼一燈。”

               
 言志晩録   林(佐藤) 一斎
  
ここで暗夜というのはお先真暗な人生行路をいっているのであり、
     一燈とは自己の堅忍不抜の向上心ではなかろうか。・・・。

        川上正光 訳 (1912〜1996東京工業大学学長)
 
弟子の阿難が、釈尊に最後が間近いことを知って、
  「私はこの先、誰に頼ったらよいのでしょうか」と泣きながら訴えた。
 釈尊はいわれた、
  「阿難よ、汝自らを灯火とし、汝自らを依り所とせよ。他を依り所とするな。
  真理を灯火とし、真理を依り所とせよ。」と、・・・・。法句経
(160) に歌っていう。
     「おのれこそ おのれのよるべ
             他の誰に たよられようぞ
      よくととのえし おのれこそ
             まこと得難き よるべなれ」
     
 (2) 真の自己と仮の吾

 「言志後録」  真己と仮己に、佐藤一斎は、

  
本然の真己(しんこ)有り。躯殻(くかく)の仮己(かこ)有り。
  
(すべからく)く自(みずか)ら認め得んことを要すべし。
    
”有本然之真己。有躯殻仮己。須要自認得。”

***************
訳:
 宇宙の本質と一致して、自己善悪を判断できる真の自己があり、身体を備えた外見上の仮の自己がある。
 このように自己に二つあることを自ら認めて、仮の自己のために真の自己を駄目にしてはならない。
          ・・・ 
川上正光 訳 (1912〜1996東京工業大学学長)
***************
付記:
 真の自己を悟ることは一般には大変難しい問題である。これを真正面から取り組むのが禅である。
 真の自己を自覚した人は、真の自由人である。
               
川上正光 訳 (1912〜1996東京工業大学学長)
 (3) 真の自己とは・・・
 
同じく、佐藤一斎(佐久間象山(1811〜1864)の師:佐久間象山は、吉田松陰(1830〜1857)の師である。)は、「言志後録」にいう
***************
 「性分(しょうぶん)の本然(ほんぜん)を尽くし、職分の当然を務む。此(か)くの如(ごと)きのみ。」
                                   
佐藤一斎
***************
  訳:
 人は生まれつき仁義礼智信という性分をもっているのであって、このような性分のもとよりしかるべき道を尽くすべきものである。
 また、孝悌忠信という職分をも持っていて、それらの当然の務めも果たすべきである。
 人間はただこうすればよいのだ。」
              
・・・・・・川上正光 訳 (1912〜1996東京工業大学学長)  
  後に、佐久間象山(佐藤一斎の門下生、吉田松陰の師)は、

          謗
(そし)る者は、汝(なんじ)の謗るに任(まか)す。
        (わら)う者は、汝の嗤うに任す。
           天公
(てんこう)(もと)我を知る。
          他人の知るを覓
(もと)めず。

                      と、揮毫している。
 (4) 背骨があった。ホネが有ったのだ!
           
世の中個性無く、画一化したのは何故だ?!・・苦縁讃
   @  福沢諭吉は、

  
「人生は芝居の如し。
  上手な役者が乞食になることもあれば、大根役者が殿様になることもある。
  とかく、あまり人生を重く見ず、棄身になって何事も一応になすべし。」

***************

   
A 西郷南州遺訓より。
  「人を相手にせず、天を相手にせよ。
  天を相手にして己を尽くして人を咎めず、我が誠の足らざるを尋
(たず)ぬべし。」
                    と、・・。

***************
   B 西田幾多郎の日記より。

  
「大丈夫(だいじょうぶ)(こと)を成(な)す 唯(ただ)自己の独立之(これを)(たの)む。
   決して他人の力をからず。便宜
(べんぎ)の地位を求めず。」と、・・。
 
  
                 

3 『自分・吾』あらば,”志(こころざし)”有り

 (1) 「言志後録」 やむを得ざるの勢 その1    佐藤一斎

  雲烟(うんえん)は已(や)むを得ざるに聚(あつま)り、風雨已むを得ざるに洩(も)れ、
  雷霆
(らいてい)已むを得ざるに震(ふる)う。
  斯
(ここ)に以(もっ)て至誠(しせい)の作用を観る可(べ)し。

 ”雲烟聚於不得已、風雨洩於不得已、
        雷霆震於不得已、斯可以観至誠之作用。”
***************
 訳:
 
雲は自然の成り行きでやむを得ずして集まり生じ、風や雨の同様に、やむを得ずに天からもれてくるし、雷も同様にやむを得ずに轟(とどろ)きわたる。これらを見て、至誠(しせい)の作用を考えるがよい。
***************
 付記:
 本文は自然現象がやむを得ざる状況で発生することを述べたが、人間の行動も、それが止むにやまれぬ至誠より迸り出るときに、人を感動せしめ、世を動かすことができることを示唆
(しさ)したものと思う。
                  
・・・・・ 川上正光 訳 (1912〜1996東京工業大学学長)

 
(2) 同「言志後録」 やむを得ざるの勢 その2   佐藤一斎

 
(や)む可(べ)からざるの勢(いきおい)に動けば、則(すなわ)ち動いて括(くく)られず。
 枉
(ま)ぐ可からざるの途(みち)を履(ふ)めば、則ち履んで危(あやう)からず。

 ”動於不可已之勢、則動而不括。履不可枉之途、則履而不危。”
***************
訳:
 十分に考えて、これが最善であると決定して、止むにやまれない勢いで活動すれば、いささかも行き詰
(つ)まらない。
 曲げることのできない道(正道)を突き進むときは、決して危険なことはない。


               
・・・・川上正光 訳 (1912〜1996東京工業大学学長)
***************

 付記: 南州遺訓 
『道を行く者は、固(もと)より困厄(こんやく)に逢(あ)うを免(まぬが)れざるものなれば、
 如何
(いか)なる困難の地に立つと雖
(いえ)ども、事の成否、身の死生などには少しも頓着(とんちゃく)せざるを要す。
 事には上手下手有り、物には出来る人と出来ざる人有り、然れども道を踏むには上手下手無く、出来ざる人もなし。
 故に只管
(ただひたすら)道を行い、道を楽しみ、若(も)し艱難(かんなん)に逢うて之を凌(しの)がんと欲せば、いよいよ道を楽しむべし。
 予は壮年よりあらゆる艱難に遭遇したるが故に、今は如何なる難事にも出会するも敢
(あ)えて動揺せざるなり』

 (3) 志と名声
***************
  @ 言志後録
 
   名を求むるに心有るは、固(もと)より非なり。
    
名を避くるに心有るも亦(また)非なり。

    ”有心求名、固非。有心避名、亦非。”      
佐藤一斎

***************
 名声を求めるのに、無理な心があるのは、よろしくない。
 また、名声を無理に避けようとする心があるのもよろしくない。
  (身分不相応な名誉を求める心はよろしくない。
    また、当然受けるべき名誉を受けないと言う心もよろしくない)

                
・・・・・ 川上正光 訳 (1912〜1996東京工業大学学長)
  A 謾言 と題して  佐藤一斎   注:一斎の門弟である 佐久間象山の「漫述」は、先に示した。  

        「落々たる乾坤
(けんこん)またなし
           誰ぞや古
(いにしえ)より是(こ)れ真儒(しんじゅ)
         唯
(ただ)名と利と多くは累(るい)をなす
           この関を一過すれば僅
(わずか)に丈夫じょうぶ)

                  と言いましたそうで・・・・。
***************
    訳を見ますと・・・

      
「広大な天地に、人は多いが、真の人物はいない。
      昔から真の儒者といわれる人は誰だったろう。
        ただ、名誉と富とが多くの場合さまたげをなしている。
         この名と利をはねのける関門を過ぎれば、
            まあ、まあ、丈夫と言えるかな。」  と、・・・。
 (4) 向学の趣(おもむき)

   @ 「言志録」  6. 学は立志より要なるは莫
(な)し   佐藤一斎  

 学は立志
(りっし)より要なるは莫(な)し。
 而
(しこう)して立志も亦(また)(これ)を強(し)うるに非(あ)らず。
 只
(た)だ本心の好む所に従うのみ。
***************
  ”学莫要於立志。而立志亦非強之。只従本心所好而己。”
***************
 訳:
  
学問をするには、目標を立てて、心を奮い立てることより肝要なことはない。
   しかし、心を奮い立たせることも外から強制すべきものではない。
   ただ、己の本心の好みに従うばかりである。 

                  
・・・・・ 川上正光 訳 (1912〜1996東京工業大学学長)
少而学。則壮而有為。壮而学。則老而不衰。老而学。則死而不朽。
                       佐藤一斎「言志晩録」      ・・・・とも言う。
壮年期に為すこと有って期待され、老いても衰えず、
死して、尚、思い出され、
 死して後、人々に語られるような生き方は、最高に幸せといえよう。
 ・・苦縁讃
 
老子は言う・・・
  世間の知識だけが絶対じゃあないんだ。
  他人や社会を知ることなんて
  薄っ暗い知識にすぎない。
  自分を知ることこそ
  ほんとの明るい智慧なんだ。

  他人に勝つには
  力ずくですむけれど
  自分に勝つには
  柔らかな強さが要る。

  頑張り屋は外に向かってふんばって
  富や名声を取ろうとするがね。
  道(タオ)につながる人は、
  いまの自分に満足する、そして
  それを本当の富とするんだ。

  その時、君のセンターにあるのは、
  タオのエナジーであり、
  このセンターの意識は、永遠に伝わってゆく。
  それは君の肉体が死んでも
  滅びないものなのだ。
 

           「タオ 老子」  加島祥造  筑摩書房  92ページ 
 第三十三章




 知人者智也。

 自知者明也。

 勝人者有力也。

 自勝者強也。

 知足者富也。

 強行者有志也。

 不失其所者久也。

 死而不亡者寿也。

 A 大志と遠慮     佐藤一斎

     
真に大志(だいし)有る者は、克(よ)く小物(しょうぶつ)を勤(つと)め。
    真に遠慮
(えんりょ)有る者は、細事(さいじ)を忽(ゆるがせ)にせず。

    ”真有大志者、克勤小物。真有遠慮者、不忽細事。”

***************
  真に大志有る者は、小さな事をも粗末にしないで励み、
    真に遠大な考えをもっている者は、些細
(ささい)なことをもゆるがせにしない。

                     ・・・・川上正光 訳
 (1912〜1996東京工業大学学長)
                                    ・
 (5) 胆識(たんしき)の趣(おもむき)      「言志晩録」    佐藤一斎

   
@ 独特の見識・見方というものは

<読み>
  独特の見は私に似たり。人其の驟
(にわか)に至るを驚く。
 平凡の議は、公に似たり。世其の狃
(な)れ聞くに安んず。
 凡
(およ)そ人の言を聴くには、宜(よろ)しく虚懐(きょかい)にして之を激(むか)うべし。
 苟
(いやしく)も狃(な)れ聞くに安んずば可なり。

***************
  ”独特之見似私。人驚其至。平凡之議似公。世安其狃聞。
   凡聴人言。宣虚懐而激之。勿苟安狃聞。可也。”
***************
<意訳>
 
独特の見識見方というものは、個人の偏見のように見えるものである。
 それで人々は今まで聴いたことのないものを突然聴くので驚いてしまう。
 これに反して平凡な議論というものは、あたかも公論のように受け取られがちである。
 世間の人々は聞き慣れていて安心しきっているからである。
 すべての人の言を聴く時には虚心坦懐、即ち心を空っぽにして受け入れるべきである。
 かりにも耳慣れた説ばかりをよしとして、これに安んじてはいなければ結構である。
  
  A 学徳を修める・・とは

<読み>
  自得は畢竟
(ひっきょう)己に在り。
   故に能
(よ)く古人自得の処を取りて之を鎔化(ようか)す。
     今人
(こんじん)には自得無し。故に鎔化も亦能(あた)わず。
***************
    ”自得。畢竟在己。故能取古人自得処而鎔化之。
     今人無自得。故鎔化亦不能。”
   佐藤一斎  「言志晩録」

***************
<意訳>
 
学徳を修める場合、自ら得るところがあるのは、つまり自己の努力にあるのである。
 だから、自得のできた人はさらによく古来の人々の自得した所を持って来て、これをとかしてわが物とすることができる。
 ところが、今の人々は自ら得るところがないのだから、古人の自得した所をとかして自分の物とすることができない。
(残念なことだ。注:訳者
                                                               
 ◇ 教育は・・・
 
学校に伝えたいことがあり、生徒に学びたいものがあり、それを相互に伝え合いたいという意欲の接点があるという、教育本来の姿が必要なのです。今、意味も考えずに、横並びに皆、学校に行く。”学問”とは、良い言葉だ。クモンすべし!・・・・ 苦縁讃
  B  克己の工夫    佐藤一斎  「言志耋録」 

  気象を理会するは、便
(すなわ)ちこれ克己の工夫なり。
  語黙動止、都
(す)べて篤厚(とくこう)なるを要し、和平なるを要し、舒緩なるを要す。
  粗暴なること勿
(なか)れ。
  激烈なること勿れ。急速なること勿れ。

***************
  理会気象。便是克己工夫。語黙動止。都要篤厚。要和平。
 要舒緩。粗暴。勿激烈。勿急速。

***************
<意訳>
 自分の気性を把握することは、即ち己に克つ工夫である。
 語るも黙るも動くも止まるも、すべて手厚く親切であり、おだやかであり、ゆるやかであることが必要だ。
 あらあらしくてはいけない。烈しくてもよくない。気ぜわしくてもよくない。

                          **************************    
 
4 何処を目指す”志(こころざし)”だろうか?・・<自分探し>
  (1) 自分探し・・・・幸福探し
 
 中国南宋の随筆家『鶴林玉露(かくりんぎょくろ)1252年 羅大経(ら たいけい)編集 <詩人”載益”の作と思われる>
-- 
尽日(じんじつ)春を尋(たず)ねて春を見ず

芒鞋
(ぼうあい)もて踏遍(とうへん)

隴頭
(ろうとう)の雲を

帰り来て笑うて梅花を撚
(ねん)じて嗅げば

春は枝頭
(しとう)に在って已(すで)に十分

羅大経(ら たいけい) 編集 
「これまで日なが一日、春(つまり真理・
悟り)を尋ねて、草鞋がすり切れるほどに
諸方をと訪ぶらって歩いてきたが、春は何
処にも見あたらなかった。
 万策尽きてとぼとぼとわが家に帰ってみ
たら、春の命を漲らせた梅の枝と蕾が芳香
を放っていた。
 微笑みとともにその枝を手繰り寄せてフ
ッと臭いを嗅げば、春(求めていた真理・
悟り)はこの梅花の枝先に十分にあった。」
 
 空海の 『般若心経秘鍵』の 大綱序(たいこうじょ)に、以下のようにあった。
 夫(そ)れ仏法遙かに非(あら)ず。

 心中
(しんちゅう)にして則(すなわ)ち近(ちか)し。

 真如
(しんにょ)(ほか)に非(あら)ず。

 身
(み)を棄(す)てて何(いずく)んか求めん。

 迷悟
(めいご)我に在(あ)れば、発心(ほっしん)すれば則ち到(いた)る。

 明暗
(みょうあん)、他に非(あら)ざれば、信修(しんじゅう)すれば

(たちまち)に證(しょう)す。
 さて、仏の教えというものは遠くにあるのではなく、私たちの心の中にあって、極めて身近なものです。
 真実そのものは心の外にはないのですから、心のやどる我が身をかえりみずに、いったい、どこを探そうというのでしょうか。
 迷いも悟りも私たちの中にあるのですから、悟りを求める心を発
(おこ)し(発心)さえすれば、必ず悟りに到達します。
 真実の智慧の光も煩悩の闇も(明暗)、我が身以外の他所にはないのですから、信じて修行すれば、たちまちにさとりを得ることができるのです。
  
<・・金岡秀友 訳・・>

  また、
  注:禅宗では、
  「帰家穏坐
(きけおんざ)」ということを言うが、道も、真理も、悟りも、別処にあるのではなく、
    則今そのまま足下に、あなた自身という家の中に、こころの中に在ると教える。
  ・・・
 「幸せ」は、今・・ここに在る。それが見えるかどうかに掛かっている。・・ 苦縁讃 
  (2) 幸福について

   
@   2,500年前のペルシャ王サイラスの言葉。
           
  『自分自身を幸福だと思わない人間は、決して幸福ではない。』
見た目に同じような生き方をしていても、幸福と感じる人もいれば、
 不幸と感じる人もいる。
 人生は決して良いことばかりではない。
 嫌なこと、辛いこと、厳しいこと・・・・をすべて自分自身のこととして受け入れる
 人にしか、幸福は見いだせない。
 それは自分自身の心にある本当の自分との出会いともいえよう。
 「人生は遭難なのか、冒険なのか」という問いがある。
 人生を自分を探す冒険ととらえ、あらゆる逆境を乗り越えさせ、
 逞しく生きる原動力をつかんだ人は、常に「自分自身を幸福者だ」と
 目覚めた者たちであった。

              
 A  逞しく生きる原動力について・・・・ それは、こころの若さ ・・ かな ?! ・・苦縁讃
マッカーサー元帥が座右の銘としたもの
" Youth"   ・・・・ Samuel Ullman

Youth is not a time of life,it is a state of mind.

It is a temper of the will,a quality of the imagination,
a vigor of the emotions,
a predominance of courage over timidity,
of the appetite for adventure over love of ease.
-------------------------------------
You are as young as your faith,as old as your doubt;
as young as self-confidence,as old as your fear,
as young as your hope,as old as your despair.


"若さ" ・・・・ サムウェル・ウルマン

"若さ"とは、人生の一時を言うのではない。
 それは心の状態を言うのだ。
 逞しい意志、優れた想像力、炎ゆる情熱、怯懦を乗り越える勇猛心、安逸を振り切って冒険に立ち向かう意欲、こういう心の状態を"若さ"というのだ。

-------------------------------------
 人は信念と共に若く、疑惑と共に老ゆる。
 人は自信と共に若く、恐怖と共に老ゆる。
希望在る限り若く、失望と共に老い朽ちる。

<訳> 松永安左エ門氏
私は、まだ、青春のままの脱皮できないアオムシ。これを『若さ』とは言わない。<未熟>と言う。
 ・・・・苦縁讃


"真理"とは、『時代が違う!』といって、はね除ける問題ではない。  ・・・苦縁讃

 
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